小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜

小学校教員、元ラガーマン。娘2人の父のふたせんが、朝3時に子供の育ちや自己の成長を記すブログ。自分を成長させたい。

読書も振り返らなければ学びはない 【書評:堀裕嗣氏「よくわかる学校現場の教育心理学〜AL時代を切り拓く10講〜」】

過去最高のPV(ダントツで)を記録した昨日の記事

 

 

www.kesuke03.xyz

 

ロカルノさんに影響を受けて

 

やっぱり書評を書くことってめちゃくちゃ大事だと思った。

 

本を読んでいるだけでは、実践知にするのは到底難しく。

実践知どころか、自分の中にさえ落ちていないという現実。

 

じゃあこの本から何を学んだの?と問われると何も語れない恥ずかしさ。

 

やっぱり振り返りってとても大切だ

めんどくさがる自分を見つけて、ちゃんと向き合いそして常にブランドニューしていく

それが振り返りなんだな

 

そこに向き合ってきていない自分にまた気づかされた

そんな気づきをいただけた

 

やっぱりブログをしていてよかったな

そんな気づきがもらえるのはブログを書いているからだろう。

感謝。感謝。感謝。

 

 

ずっとしようしようと思っていた書評を今日は一つ

 

よくわかる学校現場の教育心理学 AL時代を切り拓く10講

よくわかる学校現場の教育心理学 AL時代を切り拓く10講

 

 

ずっと読んでみたかった堀先生の本

たくさんの学びに溢れた本で2日で一気に読了。

(読書が苦手な私にそんなこと普通ない)

自分の求めていたものに直球ど真ん中で投げ込まれてきた本。

 

そこから学んだことは3つある。

 

①認知性と身体性

自分が今行っている教育のズレや、違和感を言語化してくださっているのがこの記述。

学校教育は近代化の流れにおいて、子供たちに「産業的身体」を身につけさせるために生まれた。それまでおしゃべりしながら気ままに働いていた農作業中心の世の中から、定められた時間内に効率的にものを生産する世の中へと産業形態が移行し、それに対応できる身体習慣をつくために学校教育が生まれたわけだ。近代化の初期、この国は工場で労働している人たちがおしゃべりしながら働いたり、 時間意識を持たずに働いたりしたために生産性が著しく低かったと言う。それが学校教育が定着し遅刻は許されない時間法に基づいて行動すべしと言う経験を重ねた子供たちが労働者として定着するに及び、反対に工場の生産性が著しく高まったと言う。要するに、学校教育が労働時間は黙って集中して働くことが当然と言う意識を進化浸透させ、それに耐えうるような身体性を作ったわけである。

 

しかし、当の学校教育は、実はまだまだ産業的身体を作るためのシステムを中心に運営されている。

中略

つまり頭で学習しろと言う割には、それを成立させるためにはかつての産業的身体が前提として必要とされる、そうしたズレが生じているわけである。

校内暴力不登校問題いじめ問題発達障害の子供たちの問題傾向と認知され排除される問題などは頭と体の頭で理論的な学習の捉えと学校システムをするという構造問題と決して無縁ではない。

 

今自分が行っている教育は産業的身体を身につけさせている

しかし、世の中は産業的身体ではもう生きていけないという時代になっている

だからAL型授業がと言われている

 

ここに溝があることを気づかされる一節である。

 

産業的身体を前提として行われる一斉授業とはかなり趣を異にすることは確かだろう。

しかし、実際に取り組んでみればわかることだがアクティブラーニング型学習形態を常に主体的対話的で深い学びが成立するわけではない。深い学びに到達するために長時間にわたって右往左往するだけの時間が流れるとか、自分の意見がなかなか級友に理解してもらえないとか、逆に級友の言っていることがなかなかふに落ちない頭に自分が無能なのではないかと落ち込むとか、要するに産みの苦しみとも言うべき葛藤段階があるものである。

(中略)

その産みの苦しみの時間に耐えられるのだろうか。 

(中略)

AL的新体制のようなものがなければアクティブラーニングにおける産みの苦しみの段階に耐えてまで学び続けられないのである。

 

ここにものすごく共感した。

学びとは本来、時間のかかるはずのものだと僕は思う。

社会に出てから、答えのない問題・課題に対峙してきた時に、それを実感してきた。

 

だけれど、それを産業的身体を身につけさせるために効率化してきたのが、教師の私である。

産みの苦しみを味わわせる覚悟が教師にあるのか?

それを問われた文章である。

グサグサと胸に刺さる。

 

ファシリテーションであろうと、ワークショップであろうと協働学習であろうとAL型授業であろうと、いきなり子供たちに目の覚めるような機能を示す、神業の如き教育手法であるわけでは無い。

中略

しかし、一斉授業に比べ教師が本気で続ければ続けるほど、少しずつではあるけれど、確実に支援を要する子にもやんちゃな子にも機能するようになると確信すべき手法ではある。

中略

しかし、そのためには続けなければならない。継続だけがその機能性を確かなものに近づけていくのである。子供たちも消費者として学習に取り組んでいるが、実はそれ以上に問題なのは教師が「消費者」として授業をしている、つまり目の覚めるような効果的な手法がある最中だと言う感覚で、学びの場に身を置いていることなのである。

 

ここがこの本の中で一番胸に刺さった。

教師こそが「消費者」思考なのだ。

3日前のFBの堀先生の投稿にもあったが、教育書の読み方一つとってもそれが言えるのだろうな。

目先だけの手法を取りに行く、やってダメなら違うものを。

常に新商品を探しにいく、新しいものを買い換える。

それでは「教育」の世界の狭い問いの中でしか生きていけない。

 

やっぱりここに

産みの苦しみを味わわせる覚悟が教師にあるのか?

という問いがある。

それ以上に

教師自身が、産みの苦しみを味わう覚悟があるのか?

それを問われている。

 

②AL型授業の可能性 

 

ブレインストーミング、KJ法、ワールドカフェなど授業においての実践事例の紹介があった。その後の堀先生のこんな記述。

私はアクティブラーニング方授業において、経験による比較的長期的な行動変容を求めるのなら、このレベルの思考枠組みであると考えている。要するに、「対話のストラテジー」である。

この思考過程、対話過程を身に付けることが無駄になると言う事はおそらく生涯にわたってありえないだろう。

こうした思考過程のあり方レベル、対話過程のあり方レベルを繰り返し経験させて定着させる。それこそがAL的身体性を獲得させると言う事なんだと考えているわけだ。

認知主義的な学習と同時に子供たちが生涯にわたって思考の枠組みとして使い続けられるような対話のストラテジーを繰り返し経験させる。そうした子供たちに無意識のうちに行動変容させるような行動主義的な学習面をも付与する。私はこうした営みにAL型授業の大きな可能性があるのだと信じて疑わない。

 

国語の物語で、何か心情を読み取らせたり、その叙述から深く読めるようになる認知主義的な学習だけではなく、

その背景にある思考の枠組みを身につけさせることこそが、生涯にわたって使える力である。そんなメッセージに受け取った。

 

よく友人と話をするのだが、「表のねらい」と「裏のねらい」があるとするならば、その「裏のねらい」こそが生涯にわたって使える力なのだということをどれだけ意識して授業を構成できるかということが教師の力量になってくるだろう。

 

 

 

③メタ認知

私もDAEのサポートを受けながら、脳神経科学的な観点からのメタ認知を2年ほど行っている。それでも足りないことだらけだということをこの叙述は物語ってくれている。

 

教師なら誰もが1度や2度は、自分の授業をビデオに撮ったことがあると思う。事後にそれを見たと言う経験を持つ読者も多いだろう。しかしそれを最後まで見ることができた、最後まで見切ることができたと言う人は、一体どのくらいいるだろうか。

中略

そう。自分が見ている世界と現実の世界は違う。それもかなり違う。きっと全く違う。自分の世界は、自分の都合の良いように見えている。それをこんなにもはっきりと示してくれるもの、それが授業のビデオである。

はい。。。

と手を挙げながら読んだ自分がそこにいる。

最後までビデオ見切れたことがない。途中で見ていられなくなるんだ。

まず、声が違うことで拒否反応を起こしてしまう自分がいるんだけれど。

それ以上に。

自分の思っていたことと違う現実がそこにはある。

自分が都合よく見ていた世界が、そうではないように映っている。

それに耐えられない。

 

だから苦しいんだ。 

でも実はそこにこそ教師の成長阻害があるという。

 

授業であろうと生徒指導であろうと学級経営であろうと、教師には一つ一つの教育活動にやろうとしている意図がある。その意図を実現するために、何らかの手立てを打つ。一手一手はその意図に基づいて打たれる。しかし教師は意図から手立てと言う思考回路を取るが故に、その意図に基づいた手立てが本当に機能したか否かを顧みない傾向がある。それをかえりみれば、意図に基づいて取った手立てが自分の意図をどの程度実現したか、具現したかと言うことを分析するはずなのだ。そしてそれを分析したならば子供たちの要因や手立てに内在する要因のほかに、自分と言う教師の特性が持つ様々な難点に目が向くはずなのだ。

自分という特性には目を向けずに、子供の特性ばかりに目を向ける。

それが教師。というか自分。

まさにそうだ。

そこに目を向けずして人(児童や生徒)を変えようとばかりするからしんどくなる。

 

 

目の前にいる人の姿は自分が作り出している 

そのことに気がつかない自分。

教師には悪しきヒデゥン・カリキュラムをできる限り排除しようとする意識が必要なのである。おそらく教師が持つべきメタ認知能力は、こうした悪しきヒデゥンカリキュラムをできるだけ排除しようとする意識である。

ヒデゥンカリキュラムは、自分にとってもヒデゥンであって、それを明るみに出す行為こそが自分自身を見つめることなのだと思う。 

でもそれって簡単なことじゃないんだよな。

だってビデオ一つとって見ることもしないんだから。

 

 

ALとメタ認知は切っても切れないそんな関係になっている。

実は学校教育にアクティブラーニングを投入すると言う事は、教育活動の中心軸をアクティブラーニングへと移行させると言う事は、授業・道徳・特別活動の全ての領域において、子供たちの中にこの人間の混沌生のようなものを露出させることなのである。

少なくともそうゆう状態にこれまで以上に近づけることであることは間違いない。一斉授業はAL型授業に比べれば露出の可能性の低い授業手法であった。授業で質問されても、授業が思ったようにうまく進まなくても、最後には指導事項まとめれば形にはなったのである。このことを指導事項と言う「逃げ場」があったとも言える。

しかしAL型授業ではむしろ、主体的に考えること自体が、子供たちが対話すること自体が指導事項となる。経験させること自体が指導事項となるわけだ。その時、子供たちの中に起こる思考過程、対話手法、認知過程といったものに対する深い知識と経験が教師に必要になってくる。

あなたにその覚悟はあるか。いや仮になかったとしても、私たちはそれを身に付けなければならない立場に立たされている。それが現在だ。

おそらく、アクティブラーニングの導入は、教師の様々な力量のなさを露呈させることになる。

 

つまり、力のない自分にいかに向き合うことができるのか。それがこのAL型授業導入の宿題なんじゃないかと思う。

自分のことも理解することができないのに、他者を、30〜40人の職員室の先生や、30〜40人の児童や生徒、ましてや妻や娘だって理解できるわけはない。

(ただそれを理解しようとすることはとても大切で、それは相手に寄り添おうとすることだと思うが。)

 

まずは自分と向き合って理解することを通して、他者を見ることが大切と感じた。

 

人の分析などではなく、自己分析をもっと深くせよ。

己の力の無さを自覚せよ

 

そう言われている気がしてならない。

 

この本に出会えてよかった。本当に。

とてもおすすめ。ぜひ手にとって読んでほしい。

堀先生ありがとうございます。

 

こんなに深い学びがあったのに、言語化していなかった自分を後悔した。

読み終えてから1ヶ月。

この本を振り返る機会をくださったロカルノさんにも改めて感謝。