小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜

小学校教員、元ラガーマン。娘2人の父のふたせんが、朝3時に子供の育ちや自己の成長を記すブログ。自分を成長させたい。

苫野一徳さんの「教育の力」を読んで 【 P43までしか読んでない振り返り 】

 賞味期限読書 4冊目

 

月曜日から木曜日までで読んでいった

その範囲で読めたのは、P43まで。

 

改めて自分の読書の遅さを痛感。

(お風呂での読書を、4日中2日、職場に忘れてきたためできなかったのが痛い)

だけど賞味期限切れだからここまで。

ここまで学んだことを一度アウトプット・

 

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 

 

 

まあビシビシと響いた。

僕にたくさんのメッセージを訴えかけてくれた。本当にいい本だ。

 

今の自分に響いたところをいくつか紹介する。

 

「はじめに」

 

囲い込むこと

学校という閉鎖的な空間に子供達を”囲い込む”ことは、かつてはとても重要な意義を持っていました。子供達がその生まれ育った”習俗”を離れ、どんな家庭、

どんな地域に生まれても、皆平等に一定以上の教育を受けることができる、ということは義務教育の重要な本義だったのです。  

 

今学校は、閉ざされすぎている、あまりにも進んでいかないと思う。

いつまでも軍隊的な指導、個に応じられない一斉指導、50年近く変わらない勤務体系、世間知らずと言われる先生たち。

それは学校が開かれないからだと言われるが、閉ざす理由が昔にあったことなど知る由もなかった。

こういう意義を知ることで、現代にも残る意味がわかってくる。

 

とはいえ、変えないでいいというわけではなくて。

どうしてこのようなシステムなのかを知ることが大事だということに気づかされた。

 

  

「問い方のマジック」

「あちらとこちらと、どちらが正しいか?」と問われると、私たちは思わず、「どちらかが正しいんじゃないか。」と思ってしまう傾向があるのです。 

 

二項対立で語ると、どっちかを是、どっちかを非としがちなのだけれど、ほとんどの場合そんな決められるよなものではない。

だけれどこう聞かれるとA派かB派かという話で、互いを否定しあうようなことが起きてしまう。それでは、後に述べる「自由の相互承認」など求められない。

 

 

序章 そもそも教育はなんのため?

 

まず大前提として

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1万年前に農耕革命が起こり、食料の安定した確保ができるようになった

それからと言うもの、それらの資産を争っては、戦争を繰り返してきていた

 

哲学者たちは考えた

どうして戦争を止めることができないのか。

 

ようやく200年前に一つの答えに、つまり原理に行き着いた。

 

それは

人は誰もが「生きたいように生きたい」と言う欲望

つまり自由への欲望をもっている

ということ。

 

だからお互いが自由を主張しあって、争い続けるんだということに気がついた。

 

 

そうすると次はこのような問いに行き着く。

 

どうすればこの欲望のせめぎ合いを軽減し、戦いを終わらせ、そして一人ひとりが十全にそれぞれの<自由>を達成することができるようになるのでしょうか。

 

それについては、僕でも聞いたことのあるホッブズ、ロック、ルソーという哲学者たちが考えに考え、苫野さんの考えでは、ヘーゲルによってその集大成が示されたという。

 

それは

わたしたちが<自由>になりたいのであれば、「自分は自由だ、自由だ!」などと、ただナイーブに自分の<自由>を主張するのではなく、あるいはそれを力ずくで人に認めさせようとするのでもなく、まずはいったん、お互いがお互いに、相手が<自由>な存在であることを認め合う他にない。

ということ。

 

だからこそ、わたしたちは、自分が<自由>になるためには、他者の<自由>もまた、つまり他者もまた<自由>を求めているのだということを、ひとまず互いに承認しあう必要がある。そしてその上で、相互の納得が得られるように、互いの<自由>のあり方を調整する必要がある。

 

なんか僕はこの箇所を読んでいて、藤原さんの情報編集力の話を思い出さずにはいられなかった。

正解のない世の中になり、それぞれの価値観も多様化している中で、他者とどう折り合いをつけて行くか、互いが納得する解を見つけて行くことが大切だということを藤原和博さんは言われている。

それを納得解」と言われているけれど、まさにここに繋がるなと。

その前提も苫野さんはセットで話をされているので、よりこれが原理だということが伝わる。

 

 

また自由の定義も丁寧にされていることがすごい。

私たちのわがままは、多くの場合、他者の<自由>を侵害することになり、その結果、相手の攻撃を招いたり争いになったりと、かえって自らの<自由>を失うことになってしまう

 

それ故、<自由>とは、自らが<自由>に生きるためにこそ、他者の中にある<自由>もまた承認する必要があるのだということを、徹底的に自覚するところにあるのです。

 

自分だけの自由を論じているようではただのわがままになってしまうだけで、互いに相手には自由があるんだということを、徹底して自覚することが自由なのだということ。

 

真理を付いていて、僕は哲学の世界に引き込まれる。めちゃくちゃ面白い。

 

 

そしていよいよ話は公教育の話になっていく。

 

上記した<自由の相互承認>の原理が理解され、初めて公教育がなんのために発明されたのかがわかると苫野さんは言う。

 

社会を<自由の相互承認>の原理に基づいて作っていくこと。これだけが普遍的闘争状態を終わらせ、私たち一人ひとりの<自由>をできるだけ十全に達成させることができる根本条件でした。

ではこの原理を、わたしたちはどうすれば、できるだけ現実のものとしていくことができるのでしょうか。

 

まず法の設定があるが、それは市民の自由の保証になる、ただ自由になるための力をえることができず、法が形骸化してしまうことになる。

 

そこで登場するのが公教育

 

公教育は、すべての子供が不自由な存在たりうるよう、そのために必要な力(私はこれを教養=力能とよんでいます)を育むことで、各人の自由を実質的に保証するものなのです。(中略)

そのことと同時に社会における<自由の相互承認>の原理を、十全に実質化するためにあるのです。

 

より具体的な言葉でいうとこう書いてある。

 

公教育とは何か。以上から私はその答えを次の様に定式化しています。

すなわち各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の、教養=力能を通した実質化。つまり公教育はすべての子供に自由に生きるための”力”を育むことを保証するものであると同時に、社会における<自由の相互承認>の土台となるべきものなのです。

 

 

私たち、公教育に携わるものはこういったことを自覚した上で日々の教室で、子供達の前に立つ必要があるんだということを自覚した。

 

 

じゃあ<自由>に生きるための力とは?

じゃあ<自由の相互承認>の土台作りとは?

 

という話がある。

 

 

それは詳しくはまた中身を読んでいってほしい。

何せ、P43までしか読めていないから、まだまだ咀嚼できていないことが多すぎる。

 

だけど、こんなにも自分の考えに深みを持たせてくれるような本に出会うのは初めてかもしれない。

 

知的興奮とはこういうことをいうのだろう。

 

ブログにアウトプットしてみて、また新しい発見があった。

そして線を引いて、わかっていたつもりのことが、自分の文脈に落とそうとすると、理解が不十分なことにも気がついた。

 

本当に学び多き1冊。

 

3日経って賞味期限が切れたので、ここで1回お休み。

昨日からはこの本を読んでいる。

 

 

作家の時間―「書く」ことが好きになる教え方・学び方(実践編) (シリーズ・ワークショップで学ぶ)

作家の時間―「書く」ことが好きになる教え方・学び方(実践編) (シリーズ・ワークショップで学ぶ)

 

 

先日実践を初めてみてから、読み込むから新しい発見の連続。具体ベースで書かれているから読む手が止まらない。面白い。教室でも即座にやりたいと思うことだらけ。

 

僕の学びのスタイルとして一つ確立してきたこと。

今クラスで継続して実践していることの

・『学び合い』でも

・振り返りジャーナルでも

・「クラス会議」でも

・作家の時間でも

・学級通信でも

 

どれもまずは「Try It!」があって、その後にインプットがある。

最近大事にしている言葉でLearning by Doing

やってみなきゃわからないでしょ!という話。

 

そこ、子供達にも教えたいというか味わってほしいところだな。

 

 

 

昨日の岩瀬さんの記事があまりにも、良書に囲まれていて紹介したい。

上の2冊も入っていて。

iwasen.hatenablog.com

 

この20冊のリストを見ると、いかに自分は岩瀬さんから多くの学びの根っこをもらっているのかがよくわかる。

今回の苫野さんの本だって出会わせてくれたのは岩瀬さん。

 

ありがとうございます。

 

しかし3500文字。

こんな書いたことなかったな。P43まででここまで考えさせられるとは。