小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜

小学校教員、元ラガーマン。娘2人の父のふたせんが、朝3時に子供の育ちや自己の成長を記すブログ。自分を成長させたい。

どうして学校に行くのか。【わからないから子供に聞いてみたら、めちゃくちゃ考えさせられた話】

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先週、工藤校長から、目的と手段の話を聞いた。

 

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先日の校内研修で、目的と手段の話をした。

 

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今自分の中で、いろんな話がその目的と手段フィルターにかかっている。

 

 

自分の中で、「学校で学ぶ意味とは?」と言う問いがぐるぐると回っている。

 

なんのために学校にいくのだろう?

僕もわからないから子供と一緒に考えてみたいなと思って、教えてもらおうと思って、振り返りジャーナルのテーマを「どうして学校にいくの?」にした。

 

そうしたらめちゃくちゃ考えさせられた。

 

いくつか紹介する。

 

勉強するために来ているのと思います。勉強しないと大人の時に大変になっちゃうから。学校に行くと色々なことがわかって大人になって楽になるから。

 

一番多かったのがこれかな。

そうだよね、将来のためにやっているんだよね。

これを読みながら、思った。

今の僕は楽になっているのかな?

結果的になっているのかもしれない。

「楽」というより、学びがあったおかげで「楽しめる 」ようになったのかもしれないな。

字は読めるから読書は楽しいし。

計算はできるから買い物はすぐできるし。

社会の見方がわかるからニュースが楽しいんだろうし。

 

この子とのジャーナルでの対話でそんなことに気がつけたな。

 

九九や足し算ができない恥ずかしい大人になってしまうから。鉄棒とか跳び箱とかができない人になってしまうから。友達ができない大人になるから。

恥ずかしいから。

僕はできないことだらけだ。

読書だって、運動だって、計画だって、料理だって、ピアノだってなんだって。

本当できないことだらけだ。

できないまま大人になってるな。

子供にとってはそれがいけないことになっているのかな。もしかしたら、「できなくちゃいけない」っていうメッセージを発しているんだろうな。

 

本当はどうなんだろう?

 

もちろんできなくて恥をかくことはあるけれど、それはそこまでない。

それは基本的なことができるようになっているからなのか、それともできていないくて恥ずかしいことを受けていないだけなのか。

はたまた、僕が鈍感なだけなのか。

 

友達を作ったり勉強したりするところだと思います。私はなんで友達を作ったりと考えたこというと、いつもだらだらした毎日を繰り返してるからです。

 

自分が賢くなければお仕事で計算を遅くなるから、学校で頭を鍛えたほうがいい。学校で友達を増やしていたらほうがいっぱいお友達ができてうれしい。学校起きる運動になる。

 

なるほど。やっぱり友達のことを書く子も結構いた。

上の二つは何が特徴的かというと、自分を成長させるための一つの伴走的な役割を学校や友達がになっていると考えるところ。そこに共感した。

自分一人だとできないことも、友達と一緒だったり、学校でやったりするとできる。

そんなメッセージを受け取った。なるほどなあ。

 

 

学校は頭や姿勢を良くするためにいくんだと思います。いったら授業もとても楽しい体を使って骨を丈夫にするから。先生の仕事がなくなるから。もしもの時の訓練ができるから。

 

勉強しないと将来大変なことになるから。あと決まりとかになっているのかな?

教室もきれいにするため。ずっと家にいたら筋肉とか動かないから体育もあるのだと思う。

 

手段が目的化してしまった例。

子供は何も悪くなくて、これは大人のせい。

どうして姿勢をよくするのか。どうして教室を綺麗にするのか。

その目的を教師が把握していないし、考えていない。

だから子供は「やらされている」

それがどういう力になって、将来につながっていくのか、それが全く伝わらない。

その例だ。

あ、その教師は僕です。

 

最後、唸ったのはこの子。

大人になって困らないようにするため。

勉強をいろいろ学ぶため。

みんなと仲良く友達になるため。

これからどうしたらいいかを学ぶため。

元気いっぱい外で遊ぶため。

人との関係を良くするため。

「どうして?」がたくさん出てくるからそれを解くことができるようになるため。

  

この中で

これからどうしたらいいかを学ぶため。

「どうして?」がたくさん出てくるからそれを解くことができるようになるため。

は刺さった。

この力ってきっと将来もずっと使う力で、かつ小学校で学ばせていることにもリンクするかも。

 

そうだよね。

大人になっても常に、「これからどうしよう」の連続

それを経験できる場なのかもしれない。

 

大人になっても「どうして?」と問いて、それを解く連続。

その練習なのかもしれない。

 

わからないことは子供達に聞いてみる。

それはやっぱり真実で、僕にも知らない世界が子供達には見えているのかもしれない。

自分よりも劣っている存在なんかじゃなくて、一人の大切な価値ある存在なんだ。

 

教えるー教えられるという関係じゃない。

学び合う関係なんだよな。

 

子供ってすごいよなやっぱり。

 

ちなみに岩瀬先生のブログにも問いかけてみたらこう書いてあった。

iwasen.hatenablog.com

 

「なぜ」

と聞くから行き詰まってしまうのかもしれません。
そもそも、事前に「学ぶ意義」がわかるのでしょうか?

問いをこう変換してみたら?

「学んでどんないいことがあった?」

「学んでよかった-!と思ったこと、楽しかった-!って思ったことってなに?」

そこからの方が、回答が見えそうです。

学ぶ意義は、事後的に立ち上がってくるもの、なのかもしれませんね。

 

なるほど。目から鱗が何枚落ちることか。

 

 

いやあ考えるって楽しいな。